11月9日(月曜日)
昨日、近所の通りで怪しげな動作をする人を目撃。少し遠目に見ても60代はスッカリ越えている感じのオジサンです。
背の高さを優に超える生垣に手を入れて、ゴソゴソしています。
『何だろう?』と不思議に思ってその場所付近に来て、生け垣を見たところ、コンビニ弁当のカラが押し込まれていました。
さかな君だったら「ギョギョギョ~~~~~~!!!」と叫んでいた事でしょう。
不要になったゴミを通りの生垣に捨てる・・・・・。
もう少し歩けばスーパーがあって、そこにはゴミ箱も用意されているのに・・・・・。
そして、案の定スーパーの横を通っているのに・・・・・・。
ギョギョギョ~~~~!!と思っても、それをどうしていいのか分からず、素通りした自分の事は棚に置いておいて・・・・・。
道路に捨てると目立つから、生け垣の中に埋める様にして捨てたのか?真意は確かめようもありませんが、そのゴミを誰かが処理してくれる事を想像しないのかできないのか、わざとなのか?
「モシモシ・・・オジサン、忘れ物ですよ」と声を掛けるには、開き直られたり、まさかの時にサッサカサッと逃げられる体制を作っていないとなりません。
綺麗とか汚いという感覚的な基準を統一するのはなかなか難しい事ですが、自分のゴミは自分でゴミ箱に入れるという基本的な教えを受けられなかった方なのかしら?と勝手に想像してしまうと、やっぱり、「道徳」とか「人の道」「恥ずかしい事」「みっともない事」などという事を実例があった時に教わる事はとても重要な事だと思いました。
社内での環境整備も同様で、それぞれの感覚に頼っていると、同じ状況に居ても何も思わない人とそれが気にかかって、居心地が悪いと感じる人と様々です。
ウチにとって「恥ずかしい事」「みっともない事」とはどういう事かを伝えないと、改まる訳がありません。
「この指と~まれ」と言って指を示さなければどの指にとまったらいいのか分からないのと同じです。
ゴミ捨てオジサンにはそれを伝えてくれる人がいらっしゃらなかったのかも知れません。
勝手な事をすると、人に不愉快な思いをさせる、迷惑をかけるという事を誰かが教えてあげていたら、オジサンはスーパーまで持って行ってそこで「ポリ」の分別ごみ箱に捨てたかも知れません。
この様な、ある種どうでもいい様な話をすると、「古谷様の周囲には、必ずいつも何かが起こっていますね」と笑われます。
気にしなければ、なんていう事もないのは事実ですが、どうもこの手のアンテナが勝手に拾ってしまう様です。
でも、このオジサンの行動を見たからこそ、『あ~~~~~やっぱり教育なんだ』と気付く訳でございます。
どうしてなんだろう???と思った時が学びの時。
それをその人の姿で教えて頂くのですから、オジサン改め、先生となる訳です。
『我以外全て師なり』とはどなたの言葉だったでしょうか?