3月13日(火曜日)
先日、洗濯の流儀を少し変化させるだけでずいぶん楽になるという事を書きました。
人のお付き合いや関係性に於いても、どこまで流儀や価値観にこだわるかが試されます。
曽野綾子さんのエッセイを拝読していると、とことん自分の物差しが明確で、ブレがありません。
今読んでいるのは、だいぶお年を召されてからの出版物ですが、『60歳の時に〇〇を決めた』というエピソード、決め事がいくつもある事に関心しました。
そのくらいの歳になると、人への配慮よりも自分自身の健康や生活を保つのに忙しくなる。自分の生活や健康管理は自己責任だというメッセージが強く伝わって来ます。
60歳で会社を定年し、再雇用される場合や、関係会社への再就職をなさる方も多い昨今。
一応の区切りをつける事は、悪い事ではないと思います。
自営業・職人さん・経営者は自分で進退を決めない限り、なかなか区切りをつける事は出来ません。
昨日のTVで吉永小百合さんが『どこで幕を引くか?難しいです』と仰っていました。
責任のある役割を長く仰せつかっていると、いい加減に手抜きが出来なくなります。
その意固地さが他の方々に嫌な形で伝わるのは本望ではありませんが、大勢の方々と接していると、不本意な状況に陥る事もあります。避けられないのは残念ですが、致し方がありません。
社長という肩書に対してではなく、誰に対しても同じように礼節を保つ事が出来る方は言葉使いが多少悪くても、仕事の出来不出来があったとしても、手を差し伸べたくなり、応援したくなるものです。
プライベートなお付き合いでは、相当緩い基準に切り替える事もありますが、組織ではそうもいきません。個人ではなく、立場でものを言う様になると、それが理解できない場合はお互いに辛くなります。
この様なすれ違いを埋めるには、双方が歩み寄るという折衷案があります。
折衷案は相手にも変化を要求するという事。
それ以上に素晴らしいのは、自分自身が寛容の心を磨くと同時に自らの価値観を低くし、気持ちの乱れ、関係性の乱れを整える事だと思います。
自分の正義にしがみついている間は決して手に入れられないものです。
なのに、どうして意地を張り続ける意味があるのでしょうか。
この謎に迷いこんでいる間は、寛容な姿とは縁遠い事は間違いがなさそうです。