6月11日(火曜日)
このところ、高齢者の交通事故や中高年の引きこもり、親からの虐待に関わる事件が頻発し、ニュースを見る度に息苦しさを覚えます。
学校になじめない・・・・。
人と関われない・・・・・。
家族とも本音が離せない・・・・・。
適度な距離感が判らない・・・・・。
いきなり不機嫌になる・・・・・。
昔を思い返せば、クラスの中に一人二人・・・・三人は居たと思います。
遠足や修学旅行のグループを作る時に何故か必ず一人漏れる子がいました。
突然奇声を上げて教室中を飛び回る男子もいました。
今では、適応障害とか発達障害などという診断がつき、その事で安心した・・・・という方々も増えている様です。
『認知症』というネーミングはもはや当たり前になり、民間の生命保険会社も商品にするくらい認知度は確かなものです。
その前にはどう呼ばれていたかと思い出してみると・・・・・。
『痴呆症』でした。
痴呆とは、呆け(ボケ)と言う事です。
呆けは差別用語としてみなされ、『認知症』という言葉に置き換えられました。
『認知障害』であればストンと納得ができたものの、どうも実態を分かりにくくする表現だと気持ち悪かった事を思い出しました。
いずれにしても、脳の変化によって起こる何らの症状を見逃してはいけないと思います。
そして、若くして人と関われない方々は放任ではなく、何かしらの療養が与えられてしかるべきだと思います。
小さな子供の命を守れるほどに自分自身が育っていない人が物理的な親になりっぱなしで、親としての心得を学ばないとしたら、悲劇は収まらないでしょう。
昨日受講した研修会で、『研修は会社の義務か?自己責任か?』という議論をいたしました。
わたくしのグループは30台の女性3名と男性1名で、皆さん会社の中で研修についての課題に直面してご参加されたようです。
一般的には、会社が社員に成長して欲しい為に研修の場や費用を提供する割合の方が圧倒的に多いのですが、問題はその成果です。
『内省』が出来る人であれば、費用をかけて、時間をかけても教え甲斐がありますが、悩みは内省を試みようとしない人、それが出来ない人に対しての対策です。
これは家族や友達関係でも同じです。
自分と正直に対面する心の成長が伴わなければ、どんな策を講じようとしても通じないと思うのです。
様々な命があって、様々な生き方がある事を知り、それぞれの終わり方を含め、自己選択に満足できる事。
育むこと、育まれる事に感謝できる人達が、その感動を世の中に広められるといいのに…と思いつつ、悩みながらも自らその伝達者としての役割を果たしていかないといけないと思います。